8 安田良治

詩魂あり商魂あり  安田 良治(1903~84)

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安田良治は、明治36年(1903)、安房郡吉尾村北風原(ならいはら)に生まれる。父の友次郎は、腕の良い鋳掛屋(いかけや=鍋、釜などの漏水穴の修理)で、小さな鉄工場を営んでいた。
昭和22年(1947)、株式会社安田鉄工所(現ヤスダファインテ)が設立され、安田良治が社長に就任する。ヤスダの社員は外部の人から、同じような質問を受けるという。「なぜ一地方の田圃に近い会社が、日本一のステンレス機器メーカーに伸し上がることが出来たのか」と。
この問いに答えるためには、鴨川市の東西を走る背骨、嶺岡山系に拓かれた「嶺岡牧」の歴史が関係する。徳川家8代将軍吉宗は、インドから輸入した白牛数頭を、豊かな牧草地、嶺岡牧に放ったのだった。以降、この地で牛の飼育の研鑽(けんさん)が積まれ、「日本酪農の発祥地」となった。
戦後、食生活の改善などにより、牛乳の需要はうなぎ登り。森永、明治、雪印といった乳業会社は、競って房州牛乳を求めたのである。安田良治はいち早く、乳業機器の総合メーカーを目指していた。牛乳缶、輸送缶に必須の素材は、錆(さ)びない合金、つまりステンレスである。しかしステンレスは溶接が難しい。
良治は社員にステンレスの材質向上と、溶接しやすい改良の研究を命じた。自ら海外を視察し、情報を収集する。化学、物理学の有能な人材の育成、確保に努める。コンピューターの無い時代、材料メーカーとの共同研究は、困難をきわめた。その結果、今日では銀色楕(だ)円形のヤスダのタンクローリー車が全国を走るようになったのである。
一方、安田良治は安田稔郎(ねんろう)という雅号を持つ、歌人でもある。19歳ごろから童話や詩などを新聞や雑誌に投稿し、短歌も「アララギ」に載った。郷土(鴨川)の大歌人、古泉千樫に師事したのは20歳、千樫が42歳(昭和2年)で世を去った後、稔郎は衣鉢(いはつ)を継いで、歌誌の発行や歌碑の建立など、千樫の顕彰に努めた。昭和46年、稔郎64歳のとき、宮中歌会始めに歌人として参列している。
安田良治は、昭和38年(1963)、60歳で社長職を長男・充也(みつや)氏に譲る。現在の社長は、孫にあたる良也氏。従業員250余人、地域に就労の機会を広げている。
自分の能力を完全燃焼し、安田良治は嶺岡山の見える長狭国保病院で81歳の生涯を閉じた。嶺岡山の頂に稔郎の歌碑が建っている。〈風ふけばそらの青さよいただきに肌ぬぎて汗ふきにける〉
某氏は創業時、安田良治社長と、苦労をともにした技術畑の人である。こんなエピソードを話していただいた。
「彼が会社で研究開発に没頭していたある日、社長がにこにこ顔でやって来て、『どうだ、これからゴルフに付き合ってくれないか?』と誘われた」という。まだ勤務時間中であった。(つづく、参考資料「安田良治追悼集」)
(永井悦夫)

 

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