12 旗本北条氏

5村の村民が建立 旗本北条氏3代の供養塔

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JR安房鴨川駅西口の近くに、真言宗の寺・普門山観音寺がある。参道を通って山門に着くと、その左に、旗本北条氏利・氏澄・氏副(うじすけ)3代の供養塔がある。
北条氏は、寛永19年(1642)から享保6年(1721)まで80年間、長狭郡内の5か村を知行していた。5か村とは、横渚村(含前原町)・磯村・泉村・小町村・八色村である。北条氏は、享保4年に家督を継いだ3代氏副が享保6年に12歳で亡くなり、跡継ぎがいなかったので絶えてしまう。その3年後に、知行地だった5か村の村民が、供養塔を建てたのである。
さてこの時期の鴨川には、どのような出来事があったのだろうか。被害と言うことからは、元禄16年(1703)の大地震・大津波があげられる。津波による被害は甚大なものがあった、と伝えられている。
江戸時代に入って、紀州から来た漁師たちが漁を行って繁栄を見せていた。前原や天津小湊の海岸が、壊滅的とも言える被害を受けたのである。古刹の小湊山誕生寺も、流失の憂き目にあっている。
北条氏の知行地横渚村では、900余人の死者を出したと言われ、その犠牲者を弔った大位牌が普門山観音寺に安置されている。他にも市内には、犠牲者を弔った石塔が、何か所かある。
さらに3年後の宝永3年(1707)には、富士山が大噴火をしている。遠く離れているとはいえ、農作物等に被害があったものと思われる。打ち続く天変地異で、人心は不安に慄(おのの)いていたものだろう。そういう折、4年後の宝永7年(1711)、安房北条藩では、3人の名主が犠牲になった万石騒動が起こった。
農民の生活を無視した年貢の増収と、それに対する農民たちの陳情が、湊村名主角左衛門、国分村名主長次郎、薗村名主代理五左衛門の打ち首という悲惨な結果になる。しかし、このことが幕閣の知るところとなり、担当だった川井藤左衛門は打ち首、郡代林武太夫と代官高梨市左衛門は追放となって決着する。
同じように農民の苦境を訴えて悪家老と対決し、打ち首になった者がいる。富浦(勝山藩)の金尾谷村名主・忍足佐内である。天候不順の影響で、村人の租税減免を願い出て家老の不興をかい、明和8年(1771)に打ち首になったと言う。
悪家老、悪代官といったドラマの典型のような出来事が、この安房でも起きていたことには驚かされる。ただほとんどの領主は、知行地のために尽力していたものであろう。
ともあれこういう社会情勢の中で、北条氏3代の供養塔が建てられたことは、意味あるものと言える。5か村の村民が協力して建てたところに、価値がありと思える。
供養塔のある普門山観音寺には、明治の烈女と言われた、畠山勇子の墓もあり、先代住職の手になる、両部(金剛界・胎蔵界)曼荼羅がある。ご参拝も一興かと思われる。
(尾形喜啓)

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