5 真田倉治

製乳事業の未来を開いた酪農家 真田 倉治

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私たちの牛乳食文化を支えるのは、地域の伝統産業の酪農である。その歴史を担ってきたのは、多くの人々の弛(たゆ)まぬ努力と研鑽(さん)であった。安房の酪農は明治期、馬から牛への移行で興隆するが、この畜産業は嶺岡牧場の創設によって、基盤が築かれた。
平安朝後期の延喜式に、珠師ケ谷馬牧があったと記され、往古から官牧として存続していたが中絶した。その後、戦国時代里見氏のときに、軍馬養成の目的で駒場を放して、牧場を再興した。
里見氏が移封された慶長19年(1614)には江戸幕府の管理下におかれた。その後、徳川吉宗(1684~1751)が、牧の積極経営を始め再興する。享保6年(1721)に、牧の報告を吉宗にした、その「山野絵図」が鴨川市坂東の石井家(牧士)に伝わっている。享保13年(1728)、嶺岡牧に白牛酪を作らせ、薬用等に供した。このことが嶺岡牧が「日本酪農の発祥の地」と呼ばれる由縁(ゆえん)である。
明治になり、牧は嶺岡牧場として明治政府の管理となったが、明治6年(1873)牛疫の流行で、白牛は全滅し、多数の役畜(えきちく)が病死するなどして、飼育頭数が激減する。明治になって10年ほど経過したころ、民間にも畜産を志す者が次々に現れ、地域酪農会社が起こる。
明治11年(1878)、嶺岡牧社が設立され、乳牛生産が牧の経営の中心となる。明治22年(1889)、嶺岡畜産株式会社が発足する。ホルスタイン種2頭他を米国から輸入するが、これが安房ホルスタイン牛、飼養の始まりとなった。そして、明治44年(1911)県に全て譲渡された。
県は種畜場嶺岡分場をスタートさせ、乳牛改良で乳牛隆盛の時代になり、白牛飼養の伝統ある安房酪農は、東京に出て牛乳搾取販売業を開始した。
貸し牛や預かり牛の時代、余乳を処理する製乳工場はなかったが、牛の飼養繁殖が盛んになると、牛乳利用の道を開く製乳事業が進展する。これは明治15,16年ごろに、端を発した。創業時代(明治26年~45年)、工場乱立時代、工場整理時代と変遷するが、この中から後の明治、森永2大乳業メーカーが誕生する。嶺岡牧は、地域畜産会社や主要乳業企業の誕生地として、このように牛乳食文化の発展に寄与してきた。
この創業時代に製乳事業は、始めて企業化されるのであるが、小規模、技術力などで成績は上がらなかった。中には資本の欠乏で経営不振になるなど多事多難な時代でもあった。多くの練乳製造会社が乱立し興亡した。直結した乳牛飼育者は、その試練に耐え、酪農地としての基盤を築いた。
明治28年(1895)、吉尾村の御園(みその)にあった製酪所が不振で閉鎖。牛乳処理に困っている時、落合朔次郎ほか数人の有志の奨めで、明治29年(1896)、吉尾村大川面(おおかづら)牛頭橋際に製造工場を設置した。練乳、バターの製造を開発したのが、真田倉治の練乳所である。当初は、平鍋方式で始めたが、業績は上がった。
後に明治乳業へと発展する、磯貝岩次郎経営の鳳凰印が、大山村金束(こづか)にあった。真田練乳所は、一時、この磯貝練乳所と並び称された。しかし、大正5年(1916)、真田練乳所は愛国練乳合資会社に譲渡される。翌大正6年(1917)には、日本練乳株式会社(現森永乳業の前身)に、一切を譲渡した。
地場産業は、地域を支える大きな力である。先人の歩みは、今の文化の礎になっている。知れば知るほど、貴重な教訓を語りかけてくるのである。
(滝口巌)

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