19 金剛宥性

知っているようで知らない安房の先人・偉人たち

地蔵霊場を開いた名僧・金剛宥性

画像たてやまフィールドミュージアムHPより

地蔵菩薩は、お地蔵さんと称され、観音菩薩と並び霊場も開かれ、人々の信仰が篤(あつ)い仏様である。地蔵菩薩とは、胎蔵界曼荼羅の地蔵院にあり、釈迦如来の入滅後56億7000万年後に現れるという、弥勒菩薩の間にあって、衆生を済度する仏様である。
六道を輪廻する衆生を救うために出現し、閻魔(えんま)大王の本地仏として、十王、十三仏思想のお中で中心的な存在である。
人々を救済し、江戸時代には、延命、子育て、とげ抜き地蔵など、民間信仰で現世利益を与える仏様として信仰されてきた。
金剛宥性は、宝珠院(南房総市三芳地区)の開山宥伝から、清澄寺中興1世頼勢僧正の偉業を受け継いで、地蔵院本流(真言宗の中心的法流)として、安房国108か寺に地蔵札所開いた。地蔵巡礼の道を定め、自ら詠歌を献じたのである。これは弘化元年(1844)から、清澄寺在職中に、自ら安房各所を巡礼して詠じたものである。
この霊場は、1番・三芳府中宝珠院から108番・館山腰越延命院まであり、三芳地区に7か寺、館山25、富浦2、富山5、鋸南12、丸山8、和田5、白浜6、千倉10、鴨川地区33番平塚地蔵院(上ノ内)から28番天津海福寺まで、28か寺である。詠歌は、親交のあった在俗の弟子たる、千倉の彫工後藤利兵衛橘義光らに刻ませて扁(へん)額として、各寺院に奉納されている。
この人々の祈りを聞いて、地蔵霊場を開いた金剛宥性は、智友不可得と号し、京都智積院43世大僧正である。
文政4年(1821)、長狭郡平塚村の小川左衛門の二男としてうまれ、天保4年(1833)、頼如僧正の室に入り、清水山成就院道場にて落髪し、京都に上り、智積院をはじめ各地を巡り修行する。
天保12年(1841)、鴨川西村竜性院住職に、弘化元年(1844)、清澄寺の寺主(23世)に転じて清澄寺求聞堂にて、光明真言秘法を精修する。
明治3年、等身の地蔵尊を後藤義光に彫刻せしめ、在俗の弟子として、如意雨宝居士を逆修する。
明治6年(1873)、醍醐三宝院、明治8年(1890)、醍醐寺座主、明治22年(1890)智積院43世となる。同年大伝法院座主、明治25年(1892)大僧正となる。
明治27年(1894)、先師頼如の34回忌を浅草吉祥院にて法要、明治28年1月13日、深川不動堂にて寂する。享年75(1895)。最高座主として弘通に力を尽くし、多くの弟子を育成した。附法、伝授の弟子、戒を授けた弟子を合わせて1000人以上といわれる。
また、在俗の弟子とした後藤義光は、京橋の後藤三次郎恒俊(8代)の元で年季を終了後、京都に上り、智積院や鞍馬寺の扁額を刻み、醍醐三宝院の宥性より、如意雨宝居士の法溢を賜る。清澄寺や竜性院の彫刻を手がけ、さらに安房国内の真言宗寺院等108か寺の御詠歌の扁額を、明治5年から明治8年ごろに彫るが、良き協力者であり、義光も師に対して尊敬を惜しまなかった人物であったという。
31番・大井大徳院雨宝殿の石造地蔵尊は、義光の作であるが、宥性の銘も刻されている。
(滝口巌)

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