22 水田三喜男

知っているようで知らない安房の先人・偉人たち

練達の政治家 水田三喜男

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鴨川市郷土資料館の玄関前の台座に、「水田三喜男先生之像」と記された胸像が建っている。また、館山市の鶴谷八幡宮の境内にも、ほぼ、等身大の立像がある。
昭和55年に、水田三喜男遺徳顕彰会(会長・川上紀一県知事)によって、それぞれ縁の地に建立されたものである。銅像は、彫刻家、菊池一雄(新制作教会会員)の作である。「経済財政の水田」「教育の水田」とうたわれた政治家の業績を顕彰し、郷土の偉人の姿を、永遠にとどめようとしたものである。
鴨川市郷土資料館は、生地ということで、遺品やコレクションが寄贈され、展示されている。
鶴谷八幡宮は、安房中時代を過ごした地で、八幡宮の祭りをこよなく愛し、たびたび訪れていたという。
水田三喜男は明治38年(1905)、曽呂村(現・鴨川市)に、水田家の三男として生まれた。曽呂小学校(4年間は曽呂尋常小学校分教場)、安房中学校、水戸高等学校を経て、京都帝国大学法学部を昭和6年に卒業した。卒業後、東京市役所に奉職。このころに、清子夫人と結婚した。
その後、実業界にあったが、第二次世界大戦後、日本の復興再建のため、政治家を志す。昭和21年(1946)、戦後初の衆議院議員選挙に自由党から立候補して、7位で当選する。以来、連続13回当選し、30年の長きにわたって国政に参与し、日本の復興に心血を注いだ。
自由党、自由民主党の政調会長として、政党政治の基礎を築くとともに、内閣にあっては経済審議庁長官を務めた。昭和21年、通商産業大臣に就任。昭和35年から昭和47年にかけて、5度の大蔵大臣として、高度経済成長政策を推進し、国民生活の安定と繁栄に貢献し、国際的地位の向上に努めた。
昭和41年(1971)の全ドル交換停止、円切り上げは、適切な決断と政策で危機を乗り切り、国際社会での役割を担う、地位の確立する道を開いた。
また、「国の礎は教育にあり」として、国と社会に有用な人材育成のため、義務教育費や文教施設の国庫負担、私学助成などに尽力し、教育振興にも情熱を傾けた。
そして、自らも学問による人材形成を建学の理念として、昭和40年(1965)、学校法人城西大学、城西歯科大学を創設し、初代理事長・学長などの任にあたった。教育界にも大きな足跡を残し、着実に成果を挙げている。
水田三喜男は、昭和51年(1976)12月、病を得て都立駒込病院で死去された。数多くの功績に対し、昭和51年の春の叙勲で、勲一等旭日大綬章を授けられ、従二位にも叙せられた。叙勲祝賀会で「自分の一身は、郷土と国に捧げたものとして、心を張りつめた、一日一日を活動して来た。私を長年支えてくれた人々の力があってのことである」と謝意を表し、さらなる活動に邁進する決意を示した。
特に、千葉県の運命を決する東京湾横断道路の着工促進には、全生命をかけて立ち向かいます、との決意を述べた。
その年の12月に行われた総選挙では、病床にあったにもかかわらず、第1位で当選したが、22日に急逝した。次期内閣では、副総裁兼蔵相として、入閣が決まっていたという。
東京湾横断道路建設で、豊かな房総の実現がかなったのは、水田三喜男の郷土を思う、不屈の精神のなせる業と言える。
(滝口巌)

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