14 沼野玄昌

知っているようで知らない安房の先人・偉人たち

近代医学の黎明期に起きた悲劇

小湊妙蓮寺の玄昌碑 たてやまフィールドミュージアムHPより

小湊村(現鴨川市小湊)の蘭方医、沼野玄昌が非業の死を遂げたのは、明治10年(1877)、42歳であった。西郷隆盛の西南戦争が収束した年である。その頃の日本は、外国船から発生したコレラが、西南戦争から帰還する兵士たちによって、全国的に広まっていたと言われる。
維新の前後は、戦乱により外傷を負った者も多かった。その際、明治政府はわが国の伝統医学が、特に外科では非力であること、一方西洋医学の効力は絶大であることを目のあたりにした。当時、医師といえば漢方医を差していた。新政府は、近代医学、蘭方医の教育に拍車を掛けるのであった。
沼野玄昌は、天保7年(1835)に江戸の旗本萬年佐十郎の次男として生まれる。母ひろは、熱心な日蓮宗の信者である。一族から僧侶を一人だせば、六親九族が救われる。母は何とか玄昌を出家させようと寺にあずけるが、金次郎(玄昌の幼名)、そのたびに逃げ帰り、ある時は2日も畑の中に潜伏していたのであった。
母方の実家、安房国長狭郡小湊村では、玄昌の母の姉が、善安(沼野家15代)を迎えて、医業を継いでいた。玄昌12歳になって、善安の養子として引き取られる。
玄昌は、何としても長崎に行きオランダ医学を学びたいと、向学の志に燃えていた。
安政2年(1855)、20歳になった玄昌は、養父の許しを得て、佐倉順天堂に入門し、9年間の研修の後、小湊村に帰り、養父とともに開業する。迷信を排し、新しい西洋医学に基づく地域医療の扉を開いたのである。
佐倉順天堂は、天保14年(1842)に、蘭方医佐藤泰然が開いた学塾兼病院で、日本最初の私立病院である。
全国から俊才医学生が集まるなか、沼野玄昌は順天堂の三羽烏(がらす)と称されるようになっていた。他の2人は、後の東京順天堂の佐藤進博士、そして日本医大の前身、済生学舎の創設者、長谷川泰博士。玄昌も命長らえば、日本の名医として活躍したことであろう。
『鴨川警察史』は、次のように記している。「明治十年安房郡鴨川町に『コレラ病(※①)発生』、次いで流行の兆しあるや、漁民は或る医師が患者の生肝を抜き取り、或いは飲料水に毒薬を投じて患者を故造する(※②)ものと盲信の結果、同年11月21日、当時官命により派遣せる医師沼野玄昌を襲いて難責殴打し、玄昌は其の苦痛に堪えず、自ら加茂川に投じ逃れんとし、漁民の為に竹槍を以て惨殺せらる。玄昌は本郡湊村の人なり」
漁民の盲信にも理由はあった。ひとつは玄昌が勉学研修用の標本として、人に無縁仏の墓から死体の発掘を頼んだこと。蘭方医は解剖(腑分け)をすること。コレラ発生時、近隣の井戸に消毒として石灰を撒いたこと。
玄昌は生来酒好きであった。小湊の酒造家、杉浦家へ毎日酒を買いに行く。通帳の表紙に玄昌の狂歌が自書してあったという。
<百薬の長たる酒をけみ(※③)すれば下戸(げこ)の魂いづれかに住む>
※①コレラ=虎列刺。ころりと死ぬことから、コロリ(虎狼痢)とも言われた。※②故造する=故意につくる。※③けみする=検査する。
(参考文献=コレラ医玄昌「沼野家の記録」第18代沼野玄昌箸)
(上野治範)

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