20 佐久間吉太郎

知っているようで知らない安房の先人・偉人たち

明治の自由民権家 佐久間吉太郎

鴨川聖フランシスコ教会

慶応3年(1867)10月、第15代将軍徳川慶喜は、大政奉還を申し出、朝廷は王政復古の宣言を行い、明治新政府が発足した。余は明治維新となり、近代日本の歩みが始まった。
主権在民等の思想がもたらされ、国会開設、政界進出、教育立国・・・。強権から文民統制の政治体制への移行である。国民が政治に参加する道を開き、政治を国民のものとする、また、国民が声を発し、手を挙げ、声を届けるという、自由民権運動が起こるのである。
明治13年(1880)、芝山町出身の桜井静が国会開設を全国に呼び掛け、翌年、夷隅郡に以文会を結成した。他にも、温知社(香取)、浩鳴社(安房=佐久間吉太郎らが中心)などの政社がつくられ、活発な演説会が行われた。そういう中で、この地方の自由民権運動を推進する一人に、佐久間吉太郎がいたのである。
佐久間吉太郎は、安政5年(1859)、佐久間吉左衛門の長男として、奈良林(現鴨川市)で誕生した。生家は木更津県から戸長を命ぜられた農家であった。明治3年(1870)、長尾藩校に入学。明治9年(1876)、18歳で大幡小学校の助教の教職に就く。明治10年(1877)、教育会議を開設し、中心的な役割を果たす。同13年(1880)開催の安房四郡の会議では、自由教育令精神の継承、地域主義の標榜(ひょうぼう)、地方官の民選などについて討議する。
同年、演説会が横渚の観音寺で開催され、徴収100人と関心が高まる。発起人は、花房藩士で後に初代鴨川町長になる、懸房儀である。講師は末広鉄腸と田口卯吉であった。
明治14年(1881)、加藤淳造(平久里村)、佐久間吉太郎、山田島吉(長狭郡)らにより、資友会が結成された。また、同年には、佐久間吉太郎を中心に、浩鳴社が設立された。翌15年(1882)には、小野梓(立憲改進党)が、鴨川市域で遊説し、安田勲、佐久間吉太郎が招待されている。
明治17年(1884)、茨城県下で加波山事件が起こる。これは自由党急進派が、加波山を中心に挙兵した事件で、警察署や質屋を資金調達のために襲撃したもので、16人が追い詰められ、立て籠(こ)もったが、数日で鎮圧された。この蜂起の中心人物は、党員の富松正安だが、海路房州に逃れ、佐久間吉太郎、加藤淳造らを頼って来て、長狭地方に潜伏した。その後、姉ヶ崎で逮捕されたが、佐久間吉太郎らは、かばった罪で処罰され服役した。
佐久間吉太郎は、獄中でキリスト教を信奉し、罪を許されて千葉監獄区内囚人に、キリスト教を以て、教誨(きょうかい)=徳性の育成を目的として教え諭す活動)することを許されたという。出獄後は牧師として、全国各地を伝道して歩いた。
明治23年(1890)、第1回衆議院議員選挙に立候補するが、改進党の安田勲にやぶれた。
明治24年(1891)から千葉キリスト教会や、佐倉、九十九里、銚子などの教会に仕える。
明治34年(1901)、日本聖公会に転じ、伝道に従事する。
明治45年(1912)に、東京市内で宣教。昭和8年(1933)武蔵野教会を辞して故郷に帰る。前原に鴨川聖公会教会を創立し、併せて敬愛幼稚園を設立した。以後、農漁村の伝導に専念する。
昭和21年(1946)永眠、88歳。墓は、奈良林の生家の裏山にある。
若くして教育界や、政界に身を投じ、近代化日本、とりわけ長狭地方で、若い力を燃焼させ、リードした人々の一人として、さらに信教の面でも貢献した、佐久間吉太郎という人物がいたのである。
(滝口巌)

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