23 富安風生

知っているようで知らない安房の先人・偉人たち

鴨川の冬を愛した俳人・富安風生

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富安風生は、よほど冬が嫌いだったらしい。嫌いというよりも、恐ろしくさえ感じていたようだ。
<大寒と敵(かたき)のごとく対(むか)ひたり>
<出刃包丁のみて覗(うかが)ふ隙間風>
鴨川と富安風生とのつながりは、昭和19年(1944)の東京空襲で、疎開を余儀なくされたことによる。疎開先は、東条村和泉(現在の鴨川市和泉)の仲村道太郎氏の離れだった。仲村氏の娘が、富安風生夫人の実家(静岡県)で、女中をしていたことによる縁と言われている。
<草の戸に名刺を貼りて松の花>
東大法学部を卒業して、逓信省の事務次官まで務めた富安風生の、田舎暮らしの始まりであった。「草の戸」とあるのについて、地元の俳人・歌人でもあった石井守氏は、「仲村家が茅葺きであるからではあるが、もっと大事な意味がこめられている」と述べている。
それは芭蕉と同じ、漂白の心境をあらわしていると言うのである。官僚時代に、ホトトギス派の吉岡禅寺洞に俳句の手ほどきを受け、後には高浜虚子に師事し、明るく教養人的な句風で活躍していた富安風生も、芭蕉のような思いに浸ったのだろう。
当時、仲村家があった東条村は、田畑が広がるのどかな土地だった。また、東条村には源頼朝らの伝承があり、近くには日蓮聖人が、地頭の東条景信に襲われた、小松原山鏡忍寺もある(1264年、小松原法難)。
そのころの鴨川には、「螢火の会」と言う俳句の会が活動していた。ホトトギス派の代表的な俳人、富安風生が和泉に疎開して来たことを知った会員は、こぞって草庵を訪れたと言われている。富安風生も快く受け入れていたという。俳誌「若葉」を主催すると共に、地元の俳人の育成に努めたのであった。その年、戦況の悪化によって、一時、夫人の実家に再疎開するが、戦後は毎冬、鴨川を訪れている。
<約束のごと椿咲き庵の春>
<冬の日を愛して心まだ老いず>
この句にあるように、温暖な鴨川の冬を、富安風生は、楽しんでいたようだ。
90歳を過ぎた富安風生は、慧日山永明寺(鴨川市西町)で冬を過ごすようになった。永明寺の離れが、新築されたことによるという。永明寺は、日蓮聖人を小松原で襲った、東条景信ゆかりの曹洞宗の寺である。90歳を経ても、富安風生の俳句に対する意欲は、衰えることなく盛んだったと言われている。
現在、鴨川市には、次の句碑がある。
<わが道をふり返り見て月涼し>(鳥海竹心邸)
<うら山に鳶一望に浪涼し>(鴨川シーサイドホテル)
<生くることやうやくたのし老の春>(鴨川簡易保険加入者ホーム)
<古稀といふ春風におる齢かな=表><深空よりくれたる枝の松の花=裏>(小松原鏡忍寺)
<梅こぼれ庭の真砂に濱千鳥>(慧日山永明寺)
<初渚ふみて齢をあいしけり>(仁右衛門島)
(加藤和夫)

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