17 西尾忠篤

知っているようで知らない安房の先人・偉人たち
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花房藩と西尾忠篤

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慶応3年の大政奉還、王政復古の大号令により徳川15代将軍慶喜は将軍職から離れ、鳥羽伏見の戦いで敗れ、大阪から江戸に帰還する。明治政府は慶応4年、田安亀之助(徳川家達)を宗家16代とし、駿河府中藩に入部とし、70万石の一大名となる。この時、随った旧幕臣は6576人という。
これにより駿河、遠江の譜代大名7藩が、全て転封となり、安房上総の地に国替えとなったのである。明治元年、江戸が東京と改められ、明治2年に版籍奉還、明治4年に廃藩置県が断行され、藩主は知藩事となる。
その後、房総は3国26県に編成され、知藩事は県令となり、木更津・印旛・新治の3県になり明治6年に千葉県が誕生。初代県令としての柴原和が任命されるのである。この時代転封となった7藩の内に、横須賀藩(旧遠江、現掛川市)がある。
明治元年、藩主西尾忠篤が19歳の時、安房の地に転封され、安房の国の平、朝夷、長狭各郡、上総国望陀、周准両郡のうちに、3万5000石の花房藩が成立する。また、明治2年には藩主たちが移転となり、旧岩槻藩取締出張所(横渚蔵の台)に仮藩庁が設置され、藩主西尾忠篤は鏡忍寺(現鴨川市)に仮寓し、藩士と家族(2015人)は、神社、寺院、一般民家に居住する。花房藩と称したのは、当初花房村萩原に藩庁を計画したためである。
西尾氏は初代吉次(享禄3年~慶長11年)、織田信長、徳川家康に仕え、埼玉県上尾市に5000石を領し、関ケ原の戦い後、美濃7000石を加増され、原市藩1万2000石の大名となる。西尾忠篤(嘉永3年~明治43年)は11代目で、花房藩が最後となる。鏡忍寺から蔵の台の仮藩庁に通うため、待崎橋を今の場所に架けたのは西尾氏である。
また、子弟の教育のために、各藩は全て藩校を設立するが、これは特筆すべきことで花房藩も当初は観音寺に、後に広場須賀神社地先と、御宿の寺に設置し、藩校修道館と称した。御宿では、藩主の他領民にも教育の場を提供した。
明治4年、花房県が成立し、西尾忠篤は県令となって上京、桜田門近くの藩邸に住し、後九段に移住するが、子爵となり貴族院議員を務める。
藩主の墓は、上尾市原市の妙巌寺に初代吉次と11代忠篤、他は横須賀城の地にある。代々西尾家の墓地は四谷にあり、一族が葬られている。版籍奉還後も、藩士たちは当地鴨川などに留まる者が多く、教育者、警察官、公務員などとして活躍するなど、地域の発展に貢献されている。
竹平小学校校長であった藩士、漢人幸政氏は、西福寺で教員として起居していた古泉千樫を公私にわたり指導し、才能を伸ばしたことは知られている。
近代千葉県が成立していく過程で、藩の動向には大きなものがあり、西尾氏の花房藩もその例外ではなく、転換期の地域で、大きな役割を果たしたのである。
(滝口巌)

 

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